理系出身者の出世遅れ
理系出身の人は大学を出た後、技術職に就いて仕事をしている人は多いのではないでしょうか?そんな理系出身者はキャリアのスタートを、”まずは手に職”といった感じで仕事に没頭してしまう傾向にあります。何を隠そう私もそうだったので気持ちがよくわかります。先輩技術者の知識と経験に圧倒され、とにかく技術を極めるのだ、と鼻息荒くしていたのを思い出します。崇高で誇り高き仕事をしているのだ、という完全に自己満足の世界に浸っていました。
とにかく”技術を極めればくいっぱぐれない”と思い込み周りが見えていない理系に対して、どうやったら収入が上がるか、仕事を好きになれるか、人生を豊かに生きられるか、を考えながらキャリアをスタートさせた文系の人は、早いうちから出世のための処世術を勉強したり、マネジメント論を勉強したりしています。
慢性的に理系出身者の出世は遅れる傾向にあるのは目に見えたことだと思います。
理系文系を分ける意義
そもそも、理系と文系を分ける意義はあるのでしょうか?結論から言うと、理系文系に分ける意義はないと私は考えます。
全ての学問は人間が生きていく上で必要と考えた知識を系統だてて伝える・教えるために存在するもので、その人類の英知が2分割してしまうのはもったいないと思うからです。いや、むしろ理系文系に分けることは弊害とさえ思います。
理系文系に分かれたルーツは1910年頃の明治時代と言われているようです。また、統計的に4教科の点数を見たときに、理科数学の得点が高い集団と社会国語系の得点が高い集団に分かれるらしく、人間の頭脳としてもある程度2分化されるというのはデータ的にも根拠があるらしいです。
とは言え、分けるメリット・デメリットを列挙してみると、デメリットが多いと感じています。私が一番危惧するのは、理系と文系が合い交わらずに、相互理解を深めることすら拒絶して、両者の溝が深まっている点です。
会社の営業部門と技術部門とで仲が良くないというのは、どこの会社でもあることではないでしょうか?理系は相手の気持ちを考えて会話をすることを避ける傾向がありますし、文系はこれだけテクノロジーが支配する時代になっても、数式を避ける傾向があります。
バカの壁ではないですが、理系と文系を分けてしまうことによって、反対側の世界に興味を持たなくなってしまう人が、どれだけ多いことでしょうか。挙句の果てには、文系よりも理系の方が優れている、だとか、理系が生み出した技術を文系が商売にするのだから文系が優れている、というような議論さえ出てしまっています。
成長著しいIT系ベンチャーやスタートアップに理系出身者が多いということから、理系と文系の特色を融合させた素晴らしい人材もたくさん存在するでしょうから一概には言えませんが、現在業績が停滞している企業や部門を調査してみると、ひょっとすると理系文系マインドを持った従業員であふれて組織がバラバラであるという統計が取れるのではないか、そう思っています。
営業的思考こそ理系に必要なこと
幸運にも、私はキャリアの途中で営業を経験することができました。それも15年以上技術者として働いた中堅からベテランに入る時期にです。おかげで完全に出世競争は周回遅れとなりましたが、商売というか売るための仕組みであったり、顧客へ商品の価値をどう伝えるかの交渉術であったり、広い視野を持てるようになりました。
日本は、持ち前の職人気質が功を奏して、高度成長の時期にソニーやトヨタといったメーカーが世界を席巻させることができました。これがたまたまなのか、必然だったのかは分かりませんが、同じ思考回路と同じやり方で、失われた30年と言われる私たちが育った時間を取り戻せるとは思えません。
理系出身の技術者こそ文系の営業的思考を、文系出身の営業マンこそ理系の数式を、お互いに理解することが必要なのではないかと最近はつくづく思います。何も、弱みを強くするということではなく、弱みと認識できるくらい少しは興味をもって視野を広げる、そうすると強みの分野に活かせるようになる、ゆくゆくは日本も元気になる、そんな気がしています。
45歳からの挑戦
出世が遅れた負け惜しみ、そう思われても仕方ないかと思います。実際に悔しい気持ちもあります。せっかくなので、その悔しい気持ちをバネに、45歳定年制を自分に敷いて、行動を変えてみよう、そう方向転換ができたのも営業経験を経たからだと思います。
挑戦と言っても今は起きる時間という習慣を変えただけで、何も達成できていません。これからコツコツと小さな継続を続けて、人生100年時代の終盤に、妻と船上旅行でもしながら、ああ、あの時の変化が今に繋がって、最高の人生だったと、そう言えればよいかなと思う今日この頃です。