午前中はタスクに時間を
月曜日ということもあって、土日で進めることができたロボットハンドの設計データを要元に送るために、朝からデータの整備をすることにした。
場所が変わっても、時間とPCさえあえればどこでも対応ができるのは、とてもありがたいことだ。
インターネットの通信もテザリングでもだいぶ早くなって、本当にどこにいても同じパフォーマンスを出せるようになってきている。
通夜は午後から準備にバタバタするため午前中はできる限りの対応をするように心がけていたが、設計案件を受けているお客様の取締役には、事情を説明していたため、色々と盾になって説明をしてくださっていると思うと、感謝の気持ちでいっぱいになる。
情報共有の度合いで分かる組織の関係性
そう思う矢先に、お客様の部下の方から電話で連絡をいただいた。
ロボットを設置する向きはどうなのか、という割と緊急的な内容であるから仕方ないとも思うのだけれど、どうも電話口の口調からは、こちらが葬儀の真っただ中ということまでは理解されていないような節があった。
あれだけ取締役が盾になってくれているのだろう、と想像して感謝の念に溢れている時に、その部下の方からは拍子抜けな電話がきたものだから、そんなところからも組織の上下関係が見え隠れするものだと思ったりもした。
緊急対応と言うことで、すぐさま要元の担当の方へ連絡を取って、最新の向きがどうなるのかをアナウンスしてもらうことにした。
小さなお葬式
家族葬と言いながらも外部にも一部アナウンスはしており、最近の葬式のトレンドはよく分からないが、その中で通夜に駆けつけてくれた友人には感謝である。
気が付けば、我々も50歳近くのいいオッサンであって、葬式の一つや二つは経験してきているから、今さらどうってこともないのだが、できればお互いに葬式に声をかけるようなことは、続いて欲しくない、そう思うところだ。
よく分からないが、人は生まれて死んでいく、よく分からないからこそ、葬式のようなパッケージが存在して、それを取り仕切る人が出てくるわけだ。
そこに異を唱えてやるも良いが、一から考えるとなると、よく分からないことだらけで、そうそうこの葬儀のフォーマットを考えつくことは困難だろう。
宗派による微妙な違いは、それで特徴を出して顧客獲得をしていた名残なのだということも、少し想像を膨らませば理解できることで、だからと言って人の死を商売としかとらえずに事業活動の一環と一括りにするのは倫理的にも変だから、宗教法人という体をしている。
ひとしきりの段取りを経験することで、家族というものや人の一生ということを実感と共に学ぶことができたし、普通に生きたら90歳までは生きられる世の中になってきているところ、病を経験してしまうと10年は寿命が短くなるものなのだ、とか、寂しい気持ちを紛らわすように、そんなことを考えながら一日を過ごした。