この内容は、過去にWEBライティングしていた時の記事の焼き増しになります。投稿が採用されていたサイトが消滅していましたので、少し加筆修正を加えて紹介いたします。
問題は教育システム・教育制度ではない
何事においても、ゴールイメージとゴール達成という目的意識を共有して取り組むことが重要である、と言われます。
教育・学習においても、大切なのは将来の日本社会がどうなっているかのイメージを共有することではないでしょうか?
そうしないと、意欲も湧きませんし、途中で挫折してしまうこともあるからです。
こと教育問題については、一人一人が持つイメージというより、社会全体、つまり日本という国がどうあるべきか、というところまで落とし込むことが大切なのではないか、と個人的には思うのです。
皆でそのゴールに向かって楽しんで描いた未来へ向かうイメージなのですが、実は、日本においては、文部科学省より教育情報化やGIGAスクールの構想を掲げられていて、海外のIT/ICT教育と比較しても決して遅れているというわけではない、意外と十分な環境は整っているという現状があります。
現に、我が家の二人の小学生も、もれなく1台ずつGIGA端末を学校から支給されていますし、有効活用できているのかという議論は抜きにして、義務教育の小学生一人一人にPCを分け与えている国は多くはないはずです。
「未来のイメージを持とうよ」と強く思うのは、十分に環境が整っている今だからこそ、何かもう一つ足りないところがあるのでは、と感じるからです。
日本の教育は変わらないのか?
日本の教育制度は十分、という話をすると、集団教育制度が最もよくないシステムである、という意見が出されます。
古くから日本では、寺子屋制度のように、個別の学習能力に合わせた教育制度を取り入れており、その結果、明治初期に列強各国に対等で戦える国家を形成できた、という例も集団教育制度を反対する意見としてよく出されます。
逆に、スーパーのレジでのおつりの計算を、ほぼ全ての国民ができるという国は日本しかない、という例や、先の寺子屋制度のおかげで当時の日本は世界有数の識字率を誇る国であった、という例もよく出されるかと思います。
集団教育制度がもたらしてくれた恩恵は、私たちが感じている以上に、世界から見たら特異的な国民性なのかも知れません。
文科省が掲げるGIGAスクール構想においても、すでに小学校には一人一台端末が支給されて、プログラミング教育の必修化など、海外の教育制度に比べても遅れているわけではありませんし、変える必要すらないと言えます。
日本は、仏教伝来や種子島の鉄砲などのように、古来から海外のシステムを取り入れて、それに改良を加えるという面に優れており、それをひたすらこなすという国民性は変えられない、変える必要はない、と感じるのです。
日本を、世界を変えてこそ教育
では、何を変える必要があるのでしょうか?
零型戦闘機や携帯電話のように、輸入したシステムに改良を加えて行きついた先、残念な結果に終わった例もたくさんあります。
しかし、それでも日本はガラパゴス化を生み出して進むしかない、私はそう考えます。
そして、それは、教育という面においても同様なのですが、ガラパゴス化していく過程で重要なのが、豊かな社会をイメージして取り組むという姿勢なのです。
「日本は資源に乏しいため、海外から原材料を輸入し、それを加工して製品を輸出する国である」
昔(今も?)社会科で習った内容ですが、このフレーズは誰でも知っている日本のゴールイメージではないでしょうか?
モノづくりの産業界で四半世紀を過ごしてきた私にとっては、このイメージが、明治維新以降、今日まで日本の教育のベースになっていて、ある意味、この国の社会や産業を作っている、とさえ感じるのです。
一方で、我々は小さいころから「機動戦士ガンダム」や「ドラえもん」といった漫画やアニメを通じて、独創的な近未来を想像する能力は、世界のどの国の人よりも養ってきてます。
どんな未来が待っているのか、誰かが叫んでくれるのを待つのではなく、一人一人がSNS等から発信をしていく時代です。
これからのAI時代における「未来の日本のイメージ」にぴったりなフレーズを教育という断面から作り出せたら、何て素晴らしいことかと思う、今日この頃です。